五月の節句(四、五の両日)に菖蒲湯を焚き、夏の土用なかばには桃湯を焚き、十二月の冬至には柚湯を焚くのが江戸以来の習であったが、そのなかで桃湯は早く廃れた。暑中に桃の葉を沸した湯に這入ると、虫に喰われないと云うのであるが、客の方が喜ばないのか、湯屋の方が割に合わないのか明治二十年頃から何時か止められて、日清戦争以後には桃湯の名も忘れられて仕舞った。菖蒲湯又は柚湯の日には、湯屋の番台に白木の三宝を据えてあって、客は湯銭を半紙にひねって三宝の上に置いて這入る。それを呼んで「おひねり」という。即ち菖蒲や柚の費用にあてる為に、規定の湯銭よりは一銭でも二銭でも余分の銭を包むのである。花柳界に近い湯屋などは、この「おひねり」の収入がなかなか多かった。芸妓などは奮発して、五銭も十銭も余分に包むからである。しかも明治の末期になると、花柳界附近は格別、他の場所ではその三宝を無視して、当日にも普通の湯銭しか置かない客がおいおい殖えて来たので、湯屋の方でも自然に菖蒲や柚を倹約し、菖蒲湯も柚湯も型ばかりになった。 CSR 孔子も時に会わず